天狗の杜で ~雪虫のブログ

時空の裂け目を探して、東へ西へ。山の民俗をテーマにした山旅日記です。

富士山の吉田口登山道を歩く(1)~日蓮は富士で何を祈ったのか

 前回ブログを書いてから1ヵ月以上が経ってしまいました。さすがに酷暑の足柄古道を歩く勇気はないので、7月下旬、足柄峠からよく見える”日本一の夏山”、富士山に登ってきました。

 実は、富士山に登るのは今回が初めて。そこで、数ある登山道の中でも歴史が古い「吉田口」の登山道を往くことにしました。標高2305mのスバルライン五合目から出発し、七合目の山小屋で1泊。翌朝、山頂手前でご来光を拝み、山頂でお鉢めぐりをして最高峰の剣ヶ峰に至るという計画です。

 高度順応とランチタイムを兼ね、五合目で1時間ほど過ごした後、総合管理センターの前で検温と体調確認。「検査済み」の黄色いリストバンドをもらって、いよいよ出発です。

 ここからしばらくは、なだらかな林道「富士精進線」を歩きます。「御中道」の別名を持つこの道は、古くから富士講の道者が行き交う修行の道でもありました。その道も、この日は霧に包まれ、早くも視界不良となっています。白く煙る木立の中で、可憐なクルマユリが目を和ませてくれました。

お中道に咲くクルマユリ

 20分ほど歩くと、「泉ヶ滝」の分岐に到着。六合目へは右の道を行くのが近道ですが、今回は里見平経由で迂回し、経ヶ岳を経由して六合目に向かいます。今では通る人も少ないこの道ですが、実はこちらが古来の吉田口登山道。スバルラインの開通前は、富士登拝のメインルートだったようです。ダケカンバが自生する明るい道を登って行くと、説明板がありました。

経ヶ岳への道

「富士山吉田口登山道 五合五勺 経ヶ岳  ここはその昔、日蓮上人が富士登山を行った際に、書写した法華経を埋納した所といわれ、それにちなんでこのあたりは『経ヶ岳』と呼ばれています。

 また、この先には日蓮上人が風雨を避けて籠ったとされる岩穴があり、そこは『姥ヶ懐(うばがふところ)』と呼ばれています。

 この岩穴の中で日蓮上人は百日間の修行を行ったとされています。入口には覆屋が掛かり、現在は中に日蓮上人の石像が祀られています。

 この場所は、江戸時代には五合五勺とされていましたが、五合目といわれることもありました」(以上、説明板より引用)

 道を歩いていると、まもなく「ハ角堂 常唱殿」が見えてきました(なぜか六角堂と書かれた資料や地図多し)。古色蒼然としているので一見、木造のように見えますが、よく見ると鉄筋コンクリート造であることがわかります。その横には、左手に経典を掲げ、右手の人差し指を虚空に向けた日蓮銅像。眉毛の太い、剛毅な面差しです。銅像の台座には「立正安国」の文字。その足元では、ホタルブクロが可憐な花を咲かせていました。

(注:本稿では混乱を避けるため「日蓮聖人(上人)」などの敬称は用いず、「日蓮」と表記します。)

八角堂 常唱殿

日蓮銅像

 さらに先へ進むと、「日蓮聖人御旧跡 姥ヶ懐」と書かれた道標があり、脇の小道を下ると藁葺きの小屋がありました。この奥に、日蓮が百日行を行った岩穴があるのでしょう。「中には祖師像が祀られている」というので、暗がりに目を凝らすと、僧形の坐像のようなものがぼんやりと見えました。小屋のそばでは、薄桃色のシャクナゲが風に揺れています。

日蓮が行を行った岩穴の覆屋

姥ヶ懐への入口

咲き終わりのシャクナゲ

 六角堂の上の高台には、コンクリートの台座があり、赤銅色の宝塔が鎮座していました。ここが、1269(文永6)年に日蓮さんが経を埋納したといわれる「経ヶ岳」なのでしょう。

経ヶ岳の宝塔

 そうか。そうだったのか。 日蓮宗の系統って、だから富士山とゆかりが深いお寺や教団が多いのか。

 超絶富士ビュースポットに一山をなす身延山久遠寺日蓮宗総本山)しかり、富士山のお膝元に伽藍を構える大石寺日蓮正宗総本山)しかり。日蓮宗から派生した在家教団も含めて、漠然と「日蓮宗は富士山がお好き」というイメージを持っていたのですが、それもそのはず、富士山は日蓮の「聖跡」だったのですね。

 ようやく腑に落ちました。  

日蓮像の足元で咲くホタルブクロ

 そうなると、なぜ日蓮は「富士山」に埋経したのかが気になるところです。

 そもそも、日蓮の富士山埋経は、どのような文脈で行われたのでしょうか。以下、Wikipediaを参考にしてまとめてみます。

 

 日蓮は文応元(1260)年、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼に『立正安国論』を提出します。そして、災害や飢饉が絶えない原因は、悪法、なかんずく念仏の流行にあるから、災厄を止めるためには為政者が法華経に帰依しなければならない。そうしなければ、いずれ必ず内乱や他国からの侵略を引き起こす、と警告を発します。しかし、日蓮さんの諫言は幕府の容れるところとならず、日蓮さんは各地で迫害され、さまざまな法難を経験することとなります。

 日本列島を震撼させる大事件が起こったのは、文永5年(1268年)1月のことでした。この年、蒙古から1通の国書がもたらされます。それは、日本との通交と親睦を求めつつ、「言う通りにしないと兵を送るぞ」と恫喝したものでした。元寇リスクは一気に急上昇。降って湧いたような災厄に世情は騒然とします。

 

  日蓮が富士山を目指したのは、あくる文永6年(1269年)夏。富士吉田で法華経全巻を書写し、五合五勺の地に埋経して、「姥ヶ懐」の岩穴に参籠します。埋経とは、仏法を衰滅から救うため、経文を筒に入れて土中に埋め、後世に伝えるための行為です。日蓮は、法華経の力によって国土安泰を祈念し、蒙古襲来という未曽有の国難を救おうとしたのです。 

蒙古退散!

 では、その舞台が、なぜ「富士山」でなくてはならなかったのでしょうか。 「富士山は日本一の山だから」と言ってしまえばそれまでですが、もう少しだけ掘り下げてみます。

身延町誌』には、「(前略)文永6年春の入峡は、霊峰富士への埋経によりて国の鎮となし、法華経の宝力、仏護念力によって蒙古襲来の大国難を回避しようとされた行動にほかならぬと推察される」と書かれています。ここで気になるのが、「霊峰富士」という言葉です。富士山が古来の信仰の山であるということ。それは、日蓮による埋経地の選択に影響を及ぼしたのでしょうか。    

経ヶ岳山頂には巨大な溶岩の塊が

 調べてみると、日蓮宗新聞社のサイトに興味深い記事がありました。この記事の中で、論説委員の奥田正叡さんは、富士山信仰の歴史について触れた後、こう書いています。(以下、引用)

 このような富士信仰日蓮聖人を通しての法華信仰はどのように融合してきたのだろうか。古来富士山は仏身そのものと考えられ、山頂の剣ヶ峰、釈迦ヶ岳、薬師ヶ岳、観音ヶ岳、経ヶ岳、駒ヶ岳文殊ヶ岳、浅間ヶ岳は仏が鎮座する八葉蓮華にたとえられてきた。日蓮聖人は、『妙法比丘尼御返事』で「富士の御山に対したり」と述べ、富士山を「御山」として尊崇している。富士周辺に住んだ信者の上野殿一族に与えた『上野殿母尼御前御返事』では、「此経を持つ人をば、いかでか天照大神八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給うべきとたのもしき事也」と述べている。富士千眼大菩薩(浅間大神)を天照、八幡と同格の法華経守護神としている。日蓮聖人の富士山への信仰が理解できる。

http://news-nichiren.jp/2013/07/20/5286/

 

 この記事を読んで、「日蓮さんも神仏習合の時代を生きていたのだなぁ」と深く感じるところがありました。

 古来、日本人の宗教性の中で脈々と受け継がれてきた山岳信仰。なかでも、白山・立山とともに「日本三霊山」と崇められた富士山への信仰。それが、日蓮の中で法華経への信仰と共存し、融合していたというのです。日蓮といえば法華経至上主義のイメージが強いですから、これは正直、意外でした。

 山を崇める気持ちは、山を愛する気持ちと不可分のもの。だとすれば、日蓮さんもきっと、霊峰富士を深く愛していたにちがいありません。そう思うと、俄然、日蓮さんに親近感が湧いてきたような。

 え、短絡的じゃないかって? そう、山好きって単純・・・いえ、富士山への愛は、(人としての器も含めて)あらゆる違いを超克するのです。

 

 歩き始めて早々、経ヶ岳でかなり道草を食ってしまいました。そろそろ先に進むことにします。 (つづき)