天狗の杜で ~雪虫のブログ

時空の裂け目を探して、東へ西へ。山の民俗をテーマにした山旅日記です。

戦乱と祈りの道、「足柄古道」を歩く(1)~なぜ金太郎は鬼退治に参加できたのか

梅雨の晴れ間に、足柄古道を歩いてきました。

豊かな水を含む足柄の森

足柄古道とは、奈良時代に東西を結ぶ官道として整備された旧東海道のこと。西国から御殿場、足柄峠、関本を経て東国へと至るこの道は、『万葉集』にもうたわれた風光明媚な道だったようです。平安時代に入ると、富士山の噴火で一時的に通行できなくなり、箱根峠を越える湯坂路が開かれました。江戸時代には箱根旧街道が整備され、足柄路は歴史の表舞台から姿を消すことになります。

と、これは後付けの知識。

そもそも足柄古道を歩こうと思ったのは、「暑いから箱根で山歩きでもしようかな。でも、疲れてるからハードな山登りはちょっと…」と思っていた矢先に、登山アプリで矢倉岳の山行報告を見て「これなら気軽に歩けそう」と思ったのがきっかけ。

そんなわけですから、予備知識は一切なし。「足柄」と聞いて連想するのは「足柄山の金太郎」ぐらい。でも、地図には「足柄山」という山は見当たりません。足柄山って一体、どこなんだろう?

日本大百科全書』によれば、「足柄山」とは「神奈川・静岡県境にある足柄峠を中心とする山地。南足柄市矢倉沢地蔵堂一帯をいう。一説に金時山をさすともいわれる」とのこと。

要するに、足柄山とは、いわゆる「足柄古道」周辺の山域一帯のことなんですね。

で、地図を見ると、さすがは金太郎の地元。金太郎の遊び石だの生家跡だの産湯をつかった滝だのが、足柄古道沿いに点々と散らばっています。これは楽しそう。さっそく足柄峠、矢倉岳を経て地蔵峠に下山するプランを立て、現地に向かいました。

JR足柄駅から足柄古道へ

JR御殿場線足柄駅で下車し、足柄古道へ。鬱蒼とした樹々の下、砂利が敷かれた林道を歩きます。地蔵堂川の渓流に沿ってしばらく行くと、木を組み上げてしめ縄を渡しただけの、簡素な鳥居が見えてきました。「嶽之下宮奥宮」、とあります。

嶽之下宮奥宮へ

鳥居をくぐって赤い欄干の橋を渡ると、しめ縄を張った結界の奥に池があり、恵比寿・大黒が鎮座していました。池の手前には不動明王像の石像があり、その奥に、苔むした大きな磐座。その下では、小さな滝が勢いよく飛沫を上げています。きっと、古くからの滝行場なのでしょう。磐座と滝にはしめ縄が架けられ、ここが古来の磐座信仰の聖地であることを物語っていました。

山懐にひっそりと鎮まる、神仏習合の聖地。幾重にも結界が張られた境内には、何かとても心地よい気がみなぎっているように感じられました。

境内の奥にはさらなる結界が

奥宮の磐座と滝

立ち去りがたい思いでしたが、まだ古道歩きは序盤ですから、そろそろ先に進まねば。

奥宮に別れを告げ、渓流沿いの道を先へ進みます。

少し行くと、「戦ヶ入り」と書かれた道標がありました。「足柄史跡を守る会」が設置した説明板によると、建武2(1335)年12月11日早朝、竹之下に陣を敷く後醍醐天皇の軍勢と、足柄峠に布陣した足利尊氏軍が激突。足利氏が室町幕府を築く契機となった「竹之下合戦」の戦端が開かれたのが、この場所だというのです。

ということは、ここは古戦場!? この静かな山道で、血で血を洗う、阿鼻叫喚の光景が繰り広げられていたというのでしょうか。

さらに先に進むと、左手に「頼光対面の滝」と書かれた道標がありました。源頼光は平安中期の武将で、真偽のほどはともかく、頼光四天王と呼ばれる剛の者を率いて大江山の鬼(酒呑童子)を征伐したエピソードはあまりにも有名です(『今昔物語集』『御伽草子』)。

その頼光四天王の一員として鬼退治の一翼を担ったのが、「足柄山の金太郎」こと坂田金時。説明板を読みます。

足柄峠から源頼光は赤い雲のたなびく峰を見つけ、家来の渡辺綱にあの雲の下には偉人がいるにちがいないとして 急いでみてくるように命じました。

 渡辺綱は金太郎親子に頼光の意を告げ、この場所まで二人をともなってきました。頼光は早速 金太郎を家来の一人に加え 渡辺綱碓井貞光卜部季武の四人を頼光の四天王としました。

 初めて金太郎が頼光に対面した場所の滝としてこの名がつきました」

「頼光対面の滝」入口

つまり、金太郎はこの辺りで頼光にスカウトされたというのです。案内板に従い、古道からしばし離脱。噂の現場を見に行きます。

樹々が鬱蒼と茂った小暗い山道に分け入り、渓流に沿って急な階段を登りつめると、一瀑の美しい滝がありました。滝のそばの岩窪には、「●修之瀧不▲」(●は判読不能。▲は草に隠れて見えないが、「瀧不動」か)の文字が刻まれた、石仏のようなものが見えます。

頼光対面の滝

滝の脇にある祠と滝行小屋

滝の右手には祠と、荒れ果てた滝行小屋。小屋に掛けられた看板には、「法華宗常唱院不動滝信行道場」とありました。

それにしても、頼光一行はなぜ、こんな辺鄙な山の奥まで分け入ってきたのでしょう。

素朴な疑問でしたが、なんのことはない、彼らが活躍した平安時代、足柄道は今でいう「東海道」だったのですね。今は足柄古道も、人跡まばらな鄙の道となり果てましたが、その昔、人々は身分の上下を問わず、このメインストリートをたどって東西を行き来したのです。

もっとも、そのことを知るのは、もう少し後の話。林道に戻り、再び先へ進みます。

悲しい伝説を今に伝える、銚子ヶ淵

爽風が吹く渓流沿いの道

時折、木立の間を風が吹き抜け、沢から涼を運んできます。杉並木の道を抜け、しばらく行くと、三叉路に出ました。ここをまっすぐ行くと「足柄峠」ですが、「赤坂古道、県道御殿場大井線通行不可」とのこと。左折して、「虎御前石」を経由する「虎御前古道」に入ります。

「虎御前石」は、迂回路を500mほど登った、標高666mの地点にありました。

説明板によれば、源頼朝が富士の巻狩を催したとき、曽我兄弟はその機に乗じて、父の仇敵・工藤祐経を討ち果そうと計画。それを聞いた兄・十郎の恋人、虎女(後の虎御前)は、大磯を発って足柄山に入り、夜通し富士に向かって兄弟の悲願達成と安否を祈った、というのです。

この石は「虎御前 祈願達成の石」ともいわれ、「女性がこの石に座り、富士に向かって祈ると願いごとが叶う」という言い伝えがあるそうです。今は木立に視界をさえぎられ、富士山の眺望は叶わず。心眼で富士山を遙拝し、先に進みます。

虎御前石

虎御前石から少し登ったところで、ようやく県道に出ました。足柄峠方面にしばらく歩き、県道が大きくカーブしたところに差し掛かると、突然、視界が開けました。

眼下に広がるのは、静岡県東部の大展望。そして、雲の帽子を目深にかぶったあの独立峰は、まぎれもない霊峰富士ではありませんか。

空木が花盛り

六地蔵

浅間大神の碑。「明治五年 壬申 六月」と刻まれています

 

空木(ウツギ)の花が咲き乱れる県道沿いには、六地蔵一切経宝塔、浅間大神の碑などが点在し、かつての庶民信仰の名残を見ることができます。武士たちが戦火を交えた足柄古道は、高僧や修験者、富士講の道者や巡礼が行き交う、信仰の道でもあったのです。そして、足柄峠を霊地にしたものが、この世ならぬ富士の眺めであったことは想像にかたくない。

古来、富士山は大日如来をまつる密教と山岳修行の山であり、阿弥陀如来が来迎する極楽浄土の山でもありました。足柄古道は、そんな霊峰富士の存在を間近に感じることのできる、祈りの道でもあったのです。(つづく)

県道からの富士山。ここから少し登ったところに、芭蕉の句碑がありました